助けてくれるのは私か神か

巡り合わせとか運命論とか占いとか全然信じてないし、そんなものに必死になって自分の人生を委ねようとすら人を見て哀れで滑稽だと思ってた。
 友人は占いが大好きで、有名な占い師の元を渡り歩いてはその占い師や占いがいかに優れているかをよく私に力説した。でも聞いていて思ったのは、占い師は当たり障りのないことしか言わないってことだった。例えば3月に占いに行ったとして、占い師はこう言う。”これから、あなたは変化がたくさん起きる環境に身を置くでしょう。そして困難に見舞われるが、それを打開して新たなスタートを切るでしょう。”
これに対する私の意見は、いや、当たり前やん。当たり前すぎて関西弁になってしまうほど当たり前のことしか言わない。だって今は3月で4月になれば、日本在住の場合はどの人も新しい年度がスタートし学校や仕事環境がガラッと変わるのは明白だ。そして、環境が変われば困難も必ずつきまとう。その困難というものは逃げるかやり遂げるかの二択で構成されているが、占い師がやり遂げると予言したのならば、その困難に出会った時当人はその言葉を思い出し奮起するだろう。そして、それが終わった後に、あぁ、占い師が言った通り僕はやり遂げたんだ。とかふざけたこと思うんだろうけど、それをやり遂げたのは占い師ではなくて他でもないおめぇだよ。おめぇの信仰心から成る成功だろと。そんな事実を無視してその人はもっと占いを信じていく無限ループの完成だ。
 くだらない。実にくだらない。私はこの手の話が死ぬほど嫌いだ。占いに大事な選択を任せるのか?考えるのはお前だろ?大事なのはお前がどうしたいか、どうするかだろ?と思ってしまう。
 少し話はずれるが、映画とかでよく見る、主人子が自分の犯した罪を神に告白し許してもらおうとするという展開には胸焼けしていた。だって、それってずるくない?その行為をしたのは自分で、相手を苦しめておいて、でも自分は許されたいから、言い訳を並べてその行動をとった自分を正当化して許してくれだなんて図々しすぎない?お前が他人にしたことは、他でもないお前の責任で、それを神様に告白したから許されるみたいな無責任システムを構築するのは辞めなよ、と。ずっとずっとこんな風に思ってた。
 ただ、最近、巡り合わせとか身を以て感じるようになった。若くないからよりそう感じているだけかもしれない。でも、プラスとマイナスは人生で同じくらい起きて、いいことばかりではないし悪いことばかりではない、ということはひしひし感じる。つい最近も、出した手紙が紛失した、ミスを告白して咎められなかった、ぎっくり腰になった、手紙が届いた、覚えている限りでもこれくらいのプラスマイナスが起きた。いいことが起こったと思えば、今度は悪いことが起きて肝を冷やす。そしてまた、状況が好転する。この時私が思ったのは、状況が悪くなった時、他人やモノに当たり散らしめちゃくちゃにした後に好転した時は赦しを請うために神にも祈りたいってこと。悪い状況に陥った時、罵詈雑言を吐き、寄る者全てを傷つけ、この世でこんなに運が悪く不幸せな人間は私くらいだろうと悲観的になってワンワン泣いて、もうどうにでもなれと思った瞬間、神は手を差し伸べる。その時に、今度またこんなことが起こらないよう、悪いことが起こらないよう、自分がした罪を償いたくなるのだと思った。
 眠気でさらにまとまりのない文章だが残しておく。